■ 上という屋号のコピーしている者の生まれた家について

江戸時代前期に、本内の仁左衛門の倉に近くの部落の者が侵入して小豆などを盗もうとしたが、追っかけて縄縛りにしたという珍しい記事があります。

この仁左衛門と川向の栗の木台の清八とが家屋敷を取り替えたという過去帳の記事は、その百年ぐらい後の事です。

栗の木台といえども川口南向きの落ち着いた、開けたシチュエーションにあったといえます。

コピーする者の母が、先祖慰霊の仕事にこの祖地を発見して歩いてみたそうですが、広いところがあったものだと意外に思ったような話ぶりでした。

江戸の世のことですから、恐らく親族間のやりとりとして特別に認められた珍しい、藩関与のご沙汰であったと思います。

南方に奥羽山脈の腰部を見晴らす支流を帯して、西方には秋田に抜ける黒沢道を見通す日当りのいいテラス地を、和賀川をはさんで、住み分けたようなロケーションであります。

夏には川を渡って行き来していたということで、古くには至近の隣家であったと思われます。

清八は上の家に来てから、江戸時代前期まであったと思われる惣村制の老の署名で、地域の古文書に登場しております。



集落の背景をなしている太郎坂次郎坂は今もそのまま上の家の所有地になっていますが、家族が汗を流して墓地の移転を成し遂げるまでは、その坂の林の中にある鎮守の杜と真向かいに並ぶ丘の上、秋田方面に西空を望むほっとするような位置に、伝来の墓石が並んでいました。

この丘に立てば、ここが仙人峠を越えてきて最初に座った人の位置だなと実感するものがあります。

南本内川を渡るとすぐに上の家の畑が続いていて、元は一家で一帯を耕していた昔を想像させます。

江戸前期にも、南本内川の向かい側に点々と広く分家を構えていた形跡があります。



107号線を正岡子規が近国無比と称えた仙人峡谷を抜けて、秋田方面最初の和賀川支流合流点、左側に、かなり広い川原があり、昔は機関車が黒煙を上げて走っていたものです。

また合流点手前、集落の東側の背景に、人目を引くきれいな台地上の丘が、和賀川沿いに横たわっていて、その丘の上の平地は今、町の所有の芝生地の運動場になったり、高速道路のサービスエリアとなってレストハウスが立っていたりしています。

この間までは、この川原もこの丘の上の平地もみんなこの本内部落の所有地になっていたのです。

レストハウスに上る時は、この太郎坂次郎坂を均した道を通ることになります。



神社の杉林と屋敷跡の杉林は黒黒と国道からも認めることができます。