■ 大正年度の本内部落から届けられたことばと事件の背景

前にも書いたが、上の家の吉蔵という人が、運動スタッフと最初に出会ったのは、たぶん十代前半の頃であったろう。

明治十年に父親を亡くしている。

この時、生まれたばかりの十歳違いの弟がいた。

何かのあいさつをしてから、組織はこの人の目の前からすっぽりと姿を消して裏に廻り、この集落の地下に潜ったという情報がある。

それ以来少なくとも三十五年は経っているのではないだろうか。

一連の事件を同時期のこととすれば、関東大震災のちょうどその年かその翌年のことと思われる。



「かげ、かげ」とか「かげがすぎる」とかと傍聴メモにあるようである。

このことばは、最初の取材時に直接聞いて記したものとは違って、家一軒を電話状態にして家の中で話しているものを、他所で聞き取っているものである。

「公家」などと間違えてか、冗談にか解釈する例があった。

「かげしたな」と誰かに尋ねたのである。

「くげしたな」と読む場合、

他所の家が光ってきて、公家したな、と言ったというような、気持ちを小さく取るような解釈である。

もちろん無理な理解で、この場合、運動の最初から使われていた幻光術を自覚させられていた状態の発言であることがはっきりしている。

「ごけ」ということばも聞き取られていたようであるが、意味が取れないようであった。

後夫という意味である。

喜六という人が、母の連れ合いに入籍していたのである。

弟の妻の叔父に当る人である。

「気功だ、気功だ」と二回叫んだようである。

影の原因を発見したと思ったのである。

長くたずね歩いて、何かの見聞で思い当ったのであろうと思う。

当時、人間が人間に直接触らずに影響を及ぼす術としては、気功ぐらいしか思いつくものがなかったのかも知れない。

狐つきとか霊の取り付きとはあくまで考えず、人間の仕業であると思い続けていたのであろう。

背景の地下活動に部分的に気づくことがあって、予め外来的な侵入者を疑うことがあったのかも知れない。



当時の宮沢賢冶の童話にも、中国人の魔術師が登場して、六神丸という薬で人間を小さいピクルス壜に生け捕りにしてしまう話があった。

外国人が出歩いて井戸に毒を盛るとか、夜火付けを働くとかと、ちょうどその頃官憲から情報が流されて、新聞にまで載っていた頃である。

ユダヤ人差別の時もそっくり同じデマが飛んだという記述がある。

大震災の時は社会主義活動弾圧の作戦に利用されて、六千人もの外国人が見つかり次第捕らえられ、取調べも否も応もなく自警団に渡されたという。

一昼夜の仕業であったようだ。



この老人も冗談でなく本気に警戒して見張りにまで立っていたようである。

他に一切不正堕落の噂のない生真面目な農家の戸主の人生を送った人である。

生まれてから経験したことのないような気の張り方で当ったものと思われる。

おとなしい農夫がたった一度の喊声を上げたのである。



小屋に入ったようである。

そこでの会話があるとしたら、間違いなくその小屋も電話機になっていたのである。

小屋を何かの舞台にしようと、ずっと前から計画を立て、穴を掘り進み、集音機やらを床に押し当てて待っていたのである。

「気功だ」と叫んだ後であるので、あっと思い込ませて、迷いなく走らせようとしたのであろう、ちゃんと、それらしい人を用意して、目の前を歩かせたのである。

ひとまず、取調べとして「歌ってみろ」などと言って、素性を尋ねてみたというような再現シーンを、二三思い出す。

小屋の中でお医者ごっこか、などという勘ぐりの流行口も思い出したが、この時の取調室の様子を想像したものであろう。

とにかく計画通りに運ばれた事件であることは知れるのである。



送られてきた情報から、その時誰かが、廻りの山の中腹からドイツ製の遠眼鏡で村内の様子を窺っていたことがわかる。

歩哨に立っていた様子、足を踏んで抑止した様子、木に登った人がいた様子など、観察していた人のメモがあるのであろう。

原資料を見てきた人から聞かされたのであるが、その時の野外メモはすでに英語で書かれていたということである。

姿は見えなくても、西洋人がその当時あちこちに潜んでいたものであろう。

この村ではビデオはなかったようである。



平常心を失った混乱状態の発声が書き取られているのであろうか。

気を励まして、悪魔扱いのことばを発したであろう。

くそっ、などということがある。

しかし日本人は、このことばは、とっくに他の人間に向かって浴びせるものとしてでなく、自分の不運をあらぬもののせいにするように叫ぶのである。

なにくそ、と。

外国人は自分に言われたと思ってびっくりしないように。

今人間にも向かってそういうことばを使っている人がいるとしたら、それはその人の心に純粋な日本人の感覚でないものが混ざり始めているからであろう。

くそしょうべんに人間をたとえる言語風習を日本人は本来持っていなかったといえよう。

人を脅すことばとしては、・・・でもくらえ、というのがよく使われている。

そしてお目玉をくらったなどという。

この場合にも、運悪く相手の人にあまりに気の毒なことであるが、このような悪罵が口から出てしまったのであろうか。

(後に、一切そのような、いじめる様なののしり言葉は発せられていなかったことが、更なる資料によって明らかになっている)

小屋の中で誰が何を言って、実際何をしたかは見えていなかったのである。



この老人の場合、気功術を使っているのを知っているのは自分だけだという、孤立した状況があったわけである。

「何軒やった」というのは、悪さを働く者を本当に捕まえたと思って詰問したことばであろう。

しかし周りの人も、警察も、こんなに確かなことも認めてくれないだろう。

間違いなく、謀反心に気づかれないように偽装までして、こんな村にまで侵入して来ているのだ。

火付けしたりして働いている者共の一味なのが丸見えではないか。

一人でもやり遂げなければならない、と律儀で頑固な義務観念と自負心まで抱いていて、自分のやることに日本国民として誇りを持っていたのではないか。



村の為に働いたのだという信念を後にも主張していたようであるが、無念な事でもあったようだ。



その後、表面的には部落には似たような事件は起きていない。

妻が乳がんの時は、山を売ってまでして仙台の大学病院に入院させている。

先祖の財産をなくしてしまう、と妻は嘆いたそうであるが、妻思いの人でもあったようである。

わざわざ、村の共同墓地の狭い墓域に大きな墓石を一基建立している。

一生涯自分では仏心を無くしたことはなかったのである。



一方、被害者の方には大変に痛ましいことであるが、みちのくまではるばると送られて来て、大役を荷わせられていると知ってか知らずか、すつかり準備ができている街道沿いの山村に足を踏み入れてしまったのである。



これは、繰り返せば、世に言う第三国人の問題などではなく、イギリス人の地下活動の百年目のからかいというものなのである。