■ コピーする者の母の実家の周辺

最初に入った時にはすでに一軒家があったようである。

この地域は落ち武者の多い地域で、何十戸と無くその由来の流れを引く家がひしめき合っている所でもある。

この沢内通南域の先住者は、その一軒ということになっている。

似たような家系は、こんなに遠くまで逃げてこなくても、城下町近辺に五万と広がりを見せて活躍しておられる。

こういうことは、残党狩りという稼ぎ時の刃を免れるはずのない時代に珍しいことなのかもしれない。

この家系は探ると源氏新田氏の出にまで遡れると言う。

馬琴の長編ロマン、里見八犬伝、の里見氏を経たことになっている。

たまたま隣に居合わせだけの興味であったようであるが、なんと、コピーする者の家の隣の嫁さんがその滝沢馬琴の子孫に当る人だったという。

似顔絵で見ると、眼の辺りが確かにそっくりである。

地域でも特に親切に気を配ってくれる方である。

母が大変にお世話に預かったと思う。



母の実家の古い出身は隣の和賀町ということで、その由来書きに拠ると、上の家の部落を巻いて和賀川と合流している南本内川の上流域にある地域の大本家と同じであるという。

藤原時代からの鉱山地区の山元となったその家は、江戸時代早期にも、古文書に頻繁に登場していて、また庄屋農家として盛んに開田技術を揮って広い地域に分家を置いたようである。

同じ出身の家がもう一軒あって、早くから、母の家を含む地区の庄屋を勤めていたことがあったが、今その家は横手市に移っているという。

その分家が、母の家と同じ集落にあって、江戸時代後半から、庄屋や村議となって地域のリードを取っていたようである。

資料によれば、給人となった者の名と同じであるが、同一人であろう。



山元の家に六メートル五十センチを越えるもみの木の巨木があって、岩手県ではもちろん一番、全国でも六番目ぐらいのランキングを誇っている。

草分け記念に植えたもので、他の二軒にもあったはずだと聞いている。

上の家の裏にあるこじんまりとして端正な感じのする神社跡に、太い杉が見事に並び立っていて、その真南向きの石段上り口右側にも、四メートル近くのもみの木がある。

これぐらいのサイズでも、近隣には他に無いものである。