■ 桂小沢の家と百姓一揆について

上記二資料に触れられていないが、南部藩の記録資料などによると、白木野の善右衛門の家の者が役人の非を訴える越訴一揆に地域を代表して活躍していたようだ。

庄屋クラスの各地域代表一人づつが集合して、雫石方面に向かったが途中で藩の役人と出逢い、訴えを遂げると共に押さえられるという事件であった。

首謀者の一人として、青森の五戸に流罪となったが、父親の善右衛門が九十の老齢また会えないかもしれない危篤状態とあって、無断で帰郷してしまったらしい。

するとその人の年齢も、六十から七十位であったと思われる。

南部家の者の快気とか婚儀とかで刑を免じられ、長年月の末に故郷に帰ることができたのは、最後の流刑地大迫からであった。

故郷の人達が暖かく出迎えたのは当然のことである。



以上は湯田町史及び沢内村史を飾る珍しいエピソードとして、長々と十ページ近くに及んで関係資料がその説明文と共に並べられ、紹介されている。

独占的に武器を所有しているおさむらいさん方に、素裸の身で、処罰を覚悟してその搾取非道に物申すということは勇気のあることであり、また当然の主張であり、未来永劫万世において公正で立派な、名誉ある功績である。



全戸参加の百姓一揆もあって、有名なからかさ連判状が歴史館に展示されている。

サークル状に署名して連帯性を示し、主張の重さを印象付け、責任の部分化拒否を表明している。

村人の賢明さが窺われる。



またこの地域は藤原時代の金山以来銅鉱山業が絶えず、江戸時代前期にも非常に珍しい鉱夫達の一揆事件が記録されている。

あの山元庄屋小田島理助の家が賃銀問題で押し入られているのである。



思い出したのであるが、上の家のあった本内部落内の太郎坂下辺りに、明治前期に隆盛を極めた大又銅鉱山というものがあった。

西欧先進国ドイツとの技術提携という、明治維新政府の重要な産業プロジェクトの一つであったと思われる。

この地下活動は文字通りの地中作戦であるので、鉱山技術と連携するものがあったであろう。

日本国中、世界中の活動であるが、奥羽山脈の大きな切れ目である仙人の窓に分け入って進んだ理由の一つが、この大又鉱山という明治政府有数の事業にあったのかもしれない。