■ 明治維新以後の善右衛門の家の来し方

明治期には、早く旅館業を営んでいたようであるが、その後戸主を継いだのが、母の祖父に当る善右衛門であった。

日露、日清両戦役を卒えて、8人の子供をもうけた忙しい人であったようである。

何と53歳で、その年通ったばかりの汽車に轢かれて亡くなったことになっている。

大正13年である。

大正12年は関東大震災が起きた年である。



上の家と同じように家が電話機になっていたと思われる。

床板に反響して届けられるような、夜語りの声の響きが、何度も眼にしているこの家の中の様子と共に、思い出される記憶の一つとなっている。

その記憶自体イメージであったわけで、コピーする者が、土間に下りたり、床板に耳を付けて話し声を聞いたりしたことはないのである。

子供の頃から、そのイメージを置かれてきていて、今も書き写そうとする時に、そのままのイメージがややうっすらと心に映ってくるのである。



母の話では、すっかり酔っ払いになってしまって、家族の者が寄り付けなくなってしまった時があったそうである。

子供の頃にきかせてくれた話で、忘れてしまえば届けることのできない事情であった。

亡くなった時には先祖伝来の田畑をすっかり借金の形にしてしまって、その年通ったばかりの真昼間の横黒線のレールの上で横になっていたということは、相当に根深く正気を失っしていた状態であったと思われる。



イギリス人の地下活動が地域に潜ってから何年経っていたのか分からないが、上の家の場合では、この時までに35年は経っていると思われる。



かなり広く鉱山業に投資して歩いたようであるが、実った事業は一つも無かったようである。

その頃にも、山中、ズリ運びの作業の時か落下事故に遇ったという話があったようである。

コピーしている者が、川尻で土方の手伝いをしていた時、ダンプカーの後ろで合図係を頼まれたことがあった。

不意に他の作業員が砂利の下になってしまったのである。

その瞬間もその後も、声が出ずじまいであった。

黙っていてはだめじゃないか、と当然にも言われたのであるが、昔のことの繰り返しとしては違っていることが多いのである。

結局ははっきりと決まらなかった話であるようだ。

昔の事には、今の人には分からない事情が必ずあるものである。



踏み切り近くに、秋田方面に抜ける峠道の入り口がある。

藩境なので、江戸時代の番所があった所である。

ここにこの地域では珍しいくらい古い農耕技術移植の子孫の方々が暮らしておられる。

湯田町史によれば、平安時代というのであるが、その人達の田畑がある所を越中畑と呼んでいる。

田を張る目印だというはりの木すなわち榛の木を使った稲掛け術は、白木野の家ばかりでなく、湯田町に多く見かけられ懐かしいものであるが、北上市地域ではあまり眼にすることがない。

越中畑の先祖が陸奥に渡ってきた時点でもたらした古い由来の技術であると言われている。

阿倍比羅夫が陸奥派遣第一号として進軍してきた時も、この峠道を通って花巻方面にまで至ったものと推定されるのであるが、この時阿倍比羅夫は越の国の王として、越の国から出発しているのである。

義経一行も頼朝の眼を避けて、この峠道の方に回ったと、義経記にあるそうだ。

初夏には、はなはえちごのゆきつばきが、この峠道沿いに咲きそろう。

昔からずっと小さな赤い花びらを掲げては、行き交う旅の人々を迎え、見送ってきたであろう。

この雪椿は他にもう一つ南の、後三年の役に源の義家軍が行き来したという山道の途中、猿岩の麓にも自生している。

これは珍しくて、もとは越後の雪深い山中にしか生えていなかったものだという。

越中畑の人たちの先祖が、気慰みにふるさとの花木をはるばるたずさえて来て、近くに植えたものであろう。

かの善右衛門がこの番所の近くの者と遠縁でもあったのか、付き合いがあって、酒の上の不始末に及んでしまったという話もあるという。



とにかく母が話していたように、アルコール毒に頭をやられてしまって、常態的に判断能力を欠いて正体を失くしていたものと思われる。