■ 善右衛門とビデオスタッフ

酔っ払った善右衛門が、大正十二、三年ごろに、磨り臼、と言ったとしても、磨り臼は豆をひいて豆腐を作るのであり、米をひいて米粉を作るのものである。

納豆や飯米を捻り出す設備は日本国の農家には長く無かった。

戦後、餅つき機が売り出された時は、いち早く買い入れたものであった。

幼児の頃母に連れられて毎年の正月に何日かお客になっていたものであるが、珍しくて皆大喜びで、正月の真っ白い、まだ熱いもちがうまそうに出来上がってでてくるのを見ていたことを思い出す。

ミルとはこういうものなのである。

計算もなくした頭にひょいと浮かんだアイデアをそのまま口にしたのであろうか。

現実性の無い西洋的な発想である。



実は、家の中に入っていたスタッフ達が、牛の目のような珍しい眉や瞼をしていたので、その印象的な特徴から、夜中にも、牛みたいだ、牛みたいだ、と言ったのが本当らしい。

正体が知れないで怖かっただけだと思う。

うし、を、うす、と聞いてメモしたものがあるのであろう。

地下で聞いていた様子が分かる。

どうも事情に通じていない西洋の女性が縁の下にいて耳をつけていたようである。

この地域ではまだ牛を飼っていなかったと思う。

ちゃんと、地上のスタッフばかりでなく、地下で耳をつける人も特別に用意して、その時があったのである。

そして今日にまで至って、何か思わせぶりな磨り臼伝説がコピーアーにほのめかされてきたのである。



この地下活動によくある、針小棒大な原資料による憶測とおどかしの反復の内幕が見える例である。



昔の映画撮りはすべて手動で、日本に何人かしかいないプロのカメラマンが、カメラに付きっきりでなければ撮影できなかったものと思う。

京都か東京から黒沢尻岩沢までは汽車が通じていたが、天下の険当楽峡を渡ってはるばるとこの家にまで機器を運ぶのには、人と馬の脚しかなかったであろう。

謀反気の侵入第三国人を捕らえたまでは分かる。

何しに来た、と当然尋問する。

その時に映画スタッフがなんと言って、こんな奥深い田舎村に入ってきて、この事件を取材しに近寄ってきたのか、事情がよく読み取れない。

「証拠を取りに来た」とスタッフの者が告げたという報告が届けられた。



時代劇などで、憶測的ながら原資料がヒントとして組み込まれているようだが、そこに、据え膳は食わぬ、というのがある。

いろんな見聞経験から、善右衛門は、据え膳は食わぬ、とスタッフに頼まれた時に断ったと確言できる。



意外とカメラとカメラマンと被写体との距離は間近いものであると思う。

自動カメラや隠しカメラというものが常時廻っているのではない。

さあっ、と声をかけて、写す物が出来上がってから、限りあるフィルムをまわし始めるのである。



その映画スタッフ達は他に宿というものもないのであるから、この善右衛門の家に泊まっていたのかもしれない。

とにかく自分の家の中で、スタッフ達が大きなカメラセットを運び入れて設えるのをどう納得して、どう受け入れたか、気後れするくらいの気持ちではなかったろうか。

その時は完璧に、スタッフ達が自分達の仕事の進行を支配しリードしていたものと思う。

今以上に、日本国でも唯一と言えるくらいの、別世界にいるエリート文化人、インテリ東京人に初めて出くわしているのであるから。

今でもTBSの文化人達がカメラを持って家に入り込んできたら、たいがい舞い上がってしまうと思う。



そのような、日本でも数少ない映画スタッフが山村にまで歩いてきて、カメラを据えようというのは、相当の目的と計画があってのものであることはしれよう。

どうしたって撮るべきものは撮って帰らなければならない。



もはや、外国人侵入事件などというものではない、すっかり何かの茶番であることは明らかである。

しかし、立派な役でもなく、写りたい人がいるであろうか。

どうしようもなく頼まれてしまったということであろう。

いずれにしても、登場人物として頼まれた方々については無念なことである。

時代も悪いことであるが、悪い企みに連れられてしまったものである。

すっかりできあがったところへ、それっ、と映画まで持ち込んで、事件の登場人物として村の道を歩かされたのであろう。

本人もかなりの芝居に出る覚悟で、いわば謀反気に燃えた憎たらしい悪魔の顔役を頼まれていたのであろう。

満を持して、とは実にこういうことにもいうのである。



どちら側にしても、実態は、世に言う第三国人問題を仮面にかぶった、イギリス人の百年目のからかい芝居を一杯くわされたということになる。

イギリス陸軍だかが捕虜の遺体を骨粉にして、肥料会社に売りつけたことがあったというような時代である。



誰でも、殊に人目もある時に、馬鹿な事をするものではない。

ビデオカメラマン達が仕事上、登場者の仕業に見せ掛けた事件の撮影を求めたものと思われる。

後に残る証拠にされると知っていて、人の目のある時に自分から、やったことのない、何の得にもならない、あまり立派でない恥ずかしいような事をして見せるものではないと思う。

とにかく、極端な第三国人事件が絶対に必要だったのである。

映画スタッフ達がはるばるみちのくまで出かけて来た、唯一の目的であったのであるから。

為し遂げなくては帰れない任務であったわけである。

昔のカメラが置ける場所、映せる照明度のある所というのはかなり決まった条件の所であったはずである。

全体が「スタッフ事件」といえるものであれば、どこか他の場所で撮ったでっち上げのものもあったといえよう。

百年の証拠が手に入らなければ帰れないのである。

ある所ではあまりに狭く、まず、昔の日本国にも何台かしかなかったような手回し撮影機は入れなかったと思われる。

事件があったからといって、即座に写せるようなカメラでもなかったであろうし、利用できるような窓の余地もあったとは思われない。

そうとうの用意があってはじめて、写すことができた写真ばかりであったと思われる。

二人の写真があるとしても、想定される場所では絶対に不可能である。

人が大勢いる時に非常に不都合なことでもある。

真実、何かの被害者が出たかも、簡単に信じなくていいことと思う。



一般に、イギリスが用意した密室的な舞台仕掛けの事件であれば、何かがあったにしても、このあんど運動が世に現れない限り、世にないことと思っていいと断言する。

人の世にあるべき、公正で公平な調べがないのである。

真実であるかさえ疑わしい。

今の人は英国人幹部でも、残されたメモと幾枚かの写真に拠っているだけで、それ以上の見聞証拠を持っている人、見て来た人はこの世にいないのである。

以上は、イギリス人が、強引にも、みちのく人に大なるものであることの一大証拠を求めた場面と言えよう。

嘘でもよかったのである。

現在の状況からも、みちのく人を強制して大事に運び込む大掛かりな作戦が、この時以来変わることなく続けられて来ているという、活動の真相とその大方針が、今はっきりと見えてくるようである。



その後計算を無くした善右衛門が何を思い、何を口にしたかは知らない。

ただ自分自身が鉄レール上で、肉切れのようにひかれてしまったことは、あまりに自分が虚しくて、皮肉で、計画的なことではなかったか。